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第710話

Author: 宮サトリ
もうここにはいられない。これ以上いたら、何かが起きてしまう。

他人を前にすれば、まだ理性を保てるだろう。

しかし目の前にいるのは、彼が愛してやまない女性であり、それは火に油を注ぐようなものだった。

「待って」

だが、彼がちょうど背を向けたとき、背後から弥生の声が響いた。

その声に、瑛介の足は止まり、動かなくなった。

動きたくないわけではない。だが、体が脳の命令を受け付けなかった。

体と意識のせめぎ合いのなか、瑛介はその場に立ち尽くし、前にも進まず、後ろを振り向きもしなかった。

代わりに、弥生が彼の前に回り込んできた。

弥生は無表情のまま、そっと手を伸ばし、瑛介の額に触れた。

触れた瞬間、あまりの熱さに弥生は驚いて手を引っ込めた。

「......なんでこんなに熱いの?」

さっきドアを開けたとき、彼の顔が赤かったので、てっきり酔っぱらっているのだと思った。

けれど会話を交わす中で、酒の匂いは全くしなかった。

なのに顔は赤く、息も荒く、さらに「道を間違えた」なんて言ったのはすごくおかしいと思った。

ますます不審に思い、額に触れてみたら、異様な高熱......

「さっき帰ったときは元気だったじゃない。どうして急にこんな高熱を?何をしてきたの?」

ほんの数時間前の話だ。

「こんなに熱があるなんて......夜中だし、救急車を呼ぶべきかも」

そう言いかけたが、弥生はすぐに不安を覚えた。

「だめだ、まだ意識があるし、救急車が来るまで時間がかかるかもしれない。今すぐ病院に行った方がいい。でも......」

彼女が一緒に病院に行けば、家には二人の子供だけが残る。弥生はそれも心配だった。

だが、弥生は唇を噛み、目の前の熱にうなされている瑛介を一瞥し、覚悟を決めた。

「わかったわ、私が一緒に行く。でも今すぐ健司に電話して、病院に着いたら彼に来てもらって。彼が来たら私は......」

弥生の言葉が最後まで届く前に、ずっと動かなかった瑛介が急に一歩前に出て、彼女を両腕で抱きしめた。

弥生は言葉を失い、その場に固まった。

彼の荒い呼吸と、抱きしめられた体から伝わる熱が、全身を包み込んだ。

もともと彼女は押し返そうと思ったが、彼の様子を見る限り、どうやら熱にうなされ混乱しているらしい。

やはり救急車を呼ぶべきかと思い、弥生が彼を押し返そうと
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